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一部、同感。
何となくわかる部分もあります。
「森羅万象に阿弥陀如来の大悲を感じ取るというレベルにはほど遠いようです」
とは森羅万象(生活のすべての事柄において)という意味で申し上げました。
「大悲」そのものに抵抗感を持っている、という意味で使ったのではありません。
生活の隅々にわたって、御仏の大悲を実感しながら生きてはいない現実に、恥ずかしさを感じているという意味で申し上げた言葉です。
真宗に限らず儀式というものは、強制されている、と思うと強烈な反発感があるものですよね。
まして権力に依る押しつけには・・・。
心情の吐露は強制されるものではないと思ってしまうからなのでしょうか?
実は私も「三帰依文」の全員唱和には不思議な抵抗感を抱いてしまいます。
とりわけ、法話のはじめ、冒頭部分で「枕」のように形式的に唱和されるそのあり方について
ちぐはぐな感じが否めないのです。
この種の疑問は真宗の僧侶からほとんど聞いたことがないので、私だけが変わっているのか?と思っていました。
恩徳讃も真宗宗歌も「強制されている」と思いながらうたうものではないと思います。
讃歌とはそういうものだと思います。
宗教(真宗)と儀式について、一度しっかりと勉強してみないといけませんね。
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