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新潟で、お寺の規模が小さくても、忙しい時は法要が重なってしまうということを
「貧乏寺の重ね斉(とき)」といいまして、まさに今日はそれ。
法要がたった二つくらい重なるだけで、哀れなる祥琳坊主はパニック状態。
規模の大きなお寺の住職はつとまりません。
これからお通夜です。
●もの知らず様
そんなわけで、最近ゆっくりと書き込む心のゆとりがなくてすみません。
さりながら「もの知らず」というハンドルネームも何となくその意味がわかったような気がします。
私のような元来のずぼら・いい加減な感覚ではなく、ご自分にかなり厳しい目を持って生活しておいでのようですね。
ご存じのように「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏」に「南無」することですが、
「南無」するとは、かなり難しい意味合いを持っています。
他力による「南無」が本格的に了解できなければ、「南無阿弥陀仏」と称えるべきではないかといえばそんなことはないと私は思います。
さもなければ毎日読誦している『正信偈』の帰命無量寿如来という冒頭句でさえ声が出ないことになり、生きることもできません
そういう自覚を心に持てば持つほど、逆に称えられるということもあるのではないかと思います。
文化ととらえるか、信仰ととらえるかは微妙なところですね。
私は12月24日に「メリークリスマス」とは信仰上の理由で称えることはできません。
神社や教会では敬意を表することはありますが、祈りを捧げることはあり得ないと思います。
「アベ・マリア」はいい曲だと思って聞きますし、好きなカントリーミュージックバンドではキリスト教のセークレッドを何度も歌ったこともあります。だけどクリスチャンではありませんしクリスチャンになろうとも思いません。
もちろん私は、落ちこぼれではあっても真宗人だからです。
他宗教の絵画などの名作を見て、芸術的感動はありますが、宗教的感動はしたことがありません。感動とは強く影響を受けて自身に変化や動きがあることだと私は思います。
だから、フランスでピエタを見て芸術的高まりと創作的モチベーションは高まりましたが、
クリスチャンになろうという宗教的な変革は起きませんでした。
恩徳讃のメロディーは私は好きですよ。
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